徳川家康の終活
「終わりよければ全てよし」
人の一生もそうなのかもしれない。どんなに富や名声を得ても晩節を汚す人物は数しれず。
長寿大国となった我が国でも「人生の終わりのための活動」=「終活」がブームとなり、人生の総括を行い、最後を迎えるためにいろいろと忙しく活動する年配の方もいる。
本書の主人公、徳川家康が長寿なのはご存知だろうか。
- 織田信長:四九歳
- 豊臣秀吉:六一歳
- 徳川家康:七三歳
代表的な天下人を並べてもこの通り。
織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川
という歌が流行ったらしいが、実際、徳川家康は長寿のおかげで天下を取れた節もある。
そんな徳川家康は江戸幕府を開いて、たったの二年で秀忠へ職を譲っている。
そこから十一年間もの間を駿府時代と呼ばれるが、一体そこで何をしていたのか。
江戸幕府二六〇年の太平の秘密はこの十一年間の家康の終活にあり!
そこで駿府時代の家康の動きを追ったのが本書である。
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太平の世のために
徳川家康の大御所時代は、とにかく忙しかった。本当に六〇歳を過ぎた人間がやる仕事量か?と凡人は思ってしまうが、それを成し遂げてしまうのが英雄なのだろう。
- 御三家の創設
- 諸大名や朝廷の統制
- 外交関係の構築
- 豊臣家の滅亡
などなど盛りだくさんだ。
どれも政権基盤を強化するもので、豊臣家の滅亡を見届けた翌年に家康は安堵したのか没している。
ここでは、江戸幕府の代表的な政策である鎖国について紹介しよう。
開国論者だった家康
江戸幕府といえば「鎖国」を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
ペリー来航をきっかけに鎖国体制が崩壊し、幕末の動乱を迎える時代は、いまも多くの人を魅了している。
そんな鎖国体制をとっている江戸幕府だが、開祖家康は実は開国論者だったのをご存知だろうか。
家康が当時、抱えていた問題は朝鮮問題だった。豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、朝鮮との関係は最悪。
まずは、朝鮮や明、琉球と関係改善し、孤立状態から脱却することが何よりだと感じていた。
家康は、朝鮮出兵には参加していない点がラッキーで、アジア諸国からは、秀吉とは対極の人物だと思われていたらしい。
またオランダ船リーフデ号に乗船していたヤン・ヨーステンやウィリアムズ・アダムズ(イギリス人)を顧問として迎えたりと、海外についての知識を独自に仕入れていた。
こうして徳川家康はすべての国と仲良くする全方位外交を目指したが、ここで壁が立ちはだかる。
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キリシタン問題
家康はオランダ・イギリスらプロテスタント諸国だけでなく、従来の南蛮貿易をリードしてきたスペイン・ポルトガルのカトリック国にも好意を寄せていた。
だが、プロテスタント国からの注意勧告もあり、キリシタンが絡んだ「岡本大八事件」を契機に、キリシタン弾圧を開始する。
伴天連門徒御制禁なり、若し違背の輩あらば、忽ち其の科遁るべからざる事
金地院崇伝に命じて起草させ、キリシタン追放を命じた。キリシタン大名として著名な高山右近はこのとき追放にあい、マニラまでいっている。
こうして異国船が近づかないように監視し、日本人が海外に渡航することも禁止された。
幕府の管理下にある長崎や対馬・薩摩など限られた地域以外は外国との窓が閉じられて、鎖国体制が確立したのだ。
おじいちゃんを尊敬した三代目将軍家光は、家康が行った政策を「祖法」として崇め、国是として鎖国政策が認識されていった。
しかし、実際には家康は開国しすべての国と仲良くやることを目指していた。
幕臣たちは、本当は家康が開国を望んでいたことがバレると「祖法」=「鎖国」じゃない!と迫られるのに覚えていたとか。
こうして余計、キリシタンを認めることができなくなり、弾圧は激しさを増した。その帰結が島原の乱といえるだろう。
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さいごに
他にも御三家を創設したり、ライバルの豊臣家を葬ったり、しっかりとやるべきことを一個一個成し遂げたゆえに、江戸幕府は長く続いたんだなと感じた。
それらがわずか十一年間に詰まっており、徳川家康の隠居後の時代に特化した本は珍しいので終始楽しめた。
徳川家康の終活によって日本人が大好きな江戸時代はつくられたのだ。