お話きいてくださいツァーリ
もう働きたくない!国民は疲弊していました。ロシアでも工業化がはじまり多くの人が労働者として働いていましたが、日露戦争中も相まって過酷な労働環境に置かれていました。
日露戦争が長引くにつれ、国民の生活は悪化し不平不満が溜まっていきました。
そうしたなか、1905年1月に首都ペテルブルクにおいて、労働者の権利、待遇改善、日露戦争の停止等をニコライ二世に訴えるデモが起こりました。
率いたのはガポンという僧侶で、労働者組織をまとめ上げ、10万にものぼる労働者が、冬宮を目指して行進したのです。
ニコライ自身は、その場を叔父ウラジーミル公に任せて、家族と一緒に離宮へ非難。
厳格なウラジーミル公は集まった何の罪もない労働者に対して、無慈悲にも銃弾をお見舞いしたのです。1000人以上もの死者がでて、当時積もっていた広場の雪を真っ赤に染め上げました。
ガス抜きに失敗したロマノフ王朝
労働者には権利はなく義務ばかりが課せられていた。労働組合やストライキは当然禁止。議会もないので、労働者側の意見を汲み取ってくれる人はいません。
そうした労働者の不満の声を集めたロシア社会民主労働党や社会革命党は王朝から敵視され、弾圧を受け、指導者は捕まるか亡命し、満足いく活動をさせてもらえませんでした。
労働者の要望に対して、話し合いの場(議会)すらなく、暴力(銃)で答えたツァーリに対して労働者は失望しました。
それまで民衆は「よきツァーリ」像をもっていて、皇帝は悪くない。皇帝を思うままに操って動かしている奸臣こそが悪い。そう思っていたのですが、見事にツァーリに裏切られてしまいました。
血の日曜日事件はフランス革命期の「ヴァレンヌ逃亡事件」のように、皇帝への信頼を一気になくしました。この事件を期に、労働者はストライキを起こしたり、テロルの風が吹き荒れました。
第一次ロシア革命へ
労働者の協力なくして戦争には勝てません。日露戦争では重要拠点旅順が陥落し、日本海海戦では虎の子バルチック艦隊が壊滅してしまいます。
自国の水兵の反乱もあり、とてもじゃないけど戦争を継続できないロマノフ朝は、日露戦争を終結させました。
労働者の希望の一つである戦争終結は果たされましたが、肝心の労働環境等は一切変わっていません。
全国でのストライキに懲りた政府は、ニコライ二世の名義で「十月宣言」を出し、国会の開設を約束しました。
ですが、国会は「専制の葬式」にほかならないと敵対視するニコライ二世はソ連誕生までにたった4回しか国会を召集しませんでした。
憲法上にも、「いかなる法律も皇帝陛下の承認なくして発効しえない」と記載させ、ちゃっかりと押さえるところは押さえてました。
ずる賢さを持ち合わせていたツァーリでしたが、時代はそれを許しません。
パンドラの箱を開いたタイミングとして血の日曜日事件は記憶されています。
ガス抜きされない不満をレーニンがまとめ上げ、ソ連をつくる日がだんだんと近づいてきました。