歴史を変えた死
「敵は本能寺にあり!」
この名台詞でお馴染みの本能寺の変は歴史を変えた出来事だった。
あと5年もすれば全国統一も夢ではないところまで来ていた織田信長は、家臣である明智光秀の謀反によって自害に追い込まれたことは有名だ。
しかし、本能寺の変で奪われた命は織田信長だけではない。
その嫡男、織田信忠も同時に亡くなっている。
これが非常に大きな出来事で、すでに家督を譲れていた織田信忠が生き残りさえすれば、その後の豊臣秀吉、徳川家康の時代は訪れなかったかもしれないのだ。
織田信長だけでなく、織田信忠もともに歴史の舞台から消えてしまった。
それゆえに本能寺の変は歴史を変えた出来事だったのだ。
有能だった信忠
信忠は本能寺の変に巻き込まれ、わずか26歳でこの世を去った。
偉大なる父親をもった息子は凡庸なことが多いが、信忠は有能だった。
羽柴秀吉や柴田勝家ら重臣が率いる織田方面軍。そんな方面軍の一角、それも最大勢力を率いたのが信忠だ。
天下取りの障害であった武田家を滅亡に追い詰めたのも織田信忠である。
信玄亡き後も強力な軍団をもった武田勝頼を、父信長の制止を振り切って、攻め滅ぼした姿は父の若かりし頃を思い出す。
本書では、まだまだ知名度の低い、織田信長の嫡男、信忠の生涯に光を当てた一冊だ。
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父から怒られる信忠
信忠には他にも兄弟がいる。
信孝と信雄が有名だが、二人とも信忠と比べるとどうも出来が良くない。
父もそれを見抜いてか、早々に信忠を後継者に据えて、父の期待に従順に応えてきた信忠。
そんな信忠だが、あることが原因で父から怒られるエピソードが残っている。
この頃、信忠、能を好まれ、自身これを行い給い、手前見事の由、上下云々。信長、これを聞き給い、武将たる者、強いてこれを好むべからざる由、曰く、はなはだ興なし、すなわち能道具ことごとくこれを召し寄せ、梅若太夫に下さる。
信忠は能にハマっていた。しかも、鑑賞するのに飽き足らず、自分でも演じてみせるほどのハマりようで、周囲からも絶賛されていた。
そんな様子を耳にした信長は、武将たる者がそんなものにうつつを抜かすな!と不機嫌になり、道具を息子から取り上げたそうだ。
息子のハマっているものを取り上げる親の構図は、第六天魔王にも見受けられるのかと思うと面白い。
容疑者信忠
最後に本能寺の変のときについて紹介しよう。
夜明け前に1万を超える軍勢が信長の泊まる本能寺を取り囲んだ。
騒がしい原因を下人が喧嘩でもしているのかと思った織田信長だったが、最初は信忠が謀反を起こしたと思ったという説もある。
義理の父、斎藤道三も息子に追い出されたりと、親子であっても下剋上はありうるのが戦国時代。
当時、最大兵力を揃えていた息子の謀反を疑うのも無理はないのかもしれない。
「殿(信忠)が騙されて謀反か。謀反には早すぎる」
そう信長が口走ったとか。
その後、桔梗の紋をみて、誰が謀反を起こしたのか悟ったのは有名な場面である。
その時、信忠はどこにいたのだろうか。
信忠が泊まっていたのは、妙覚寺という近くのお寺。
本能寺の変、勃発当時、就寝中だった。
異変に気付き、すぐに父親を救うため本能寺へ向かおうとした信忠だったが、二条御新造で籠城を部下から勧められる。
籠城するか、脱出するか。
迷った彼がどんな選択をし、どのような最後を迎えたかは本書を読んでみてほしい。
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さいごに
明智光秀は、織田信長を殺すことに気が取られていて、息子の信忠まで殺すことまでは計画できていなかった。
周囲には信雄や徳川家康の軍団もおり、数日もちこたえるか、生き延びていれば間違いなく歴史は変わっていた。
だが、偶然か必然か織田信忠は父と同じタイミングで退場した。
彼の死後、織田家は豊臣秀吉に乗っ取られ、そんな豊臣家も、徳川家康に潰された。
まだまだ研究途中である未完の大器、信忠に興味惹かれること間違いなし!