日本にもルネサンスを
「平成」の30年間は失われた30年と呼ばれ、失敗と衰退から未だ脱却できていないように思う。
この長いトンネルからいつになったら抜けられるのだろうか。
10年スパンでも長く感じるが、ヨーロッパに目を向けてみると、「中世の暗黒時代」があったとされている。
最近では、見直されている部分もあるが、中世の数百年間を経て、古代文明が再評価され、ルネサンス期が到来した。
レオナルドダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの三巨匠をはじめ、稀代の天才たちが生まれた華の時代は、暗黒の中世の後にやってきたのだ。
失われた30年という停滞の時代も、これから飛躍する時代がやってくる準備だと思えばよかろう。
そこで、憧れと驚きに包まれた古代文明(ローマ帝国)の「古代ローマ的魅力」を持つ古今東西の男たちを、『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリさんが語るのが本書。
スポンサーリンク
「古代ローマ的な魅力」とは
扱う人物がとにかく幅広い。『テルマエ・ロマエ』で描かれた時代、五賢帝のひとりハドリアヌス帝や好奇心の鬼プリニウスから、スティーブ・ジョブズ、安部公房まで扱っている。
そんな男たちに共通しているのが「古代ローマ的魅力」で3つあるとヤマザキマリさんは言う。
- 「寛容性」
- 「直感力」
- 「ダイナミズム」
「寛容性」から説明しよう。
古代ローマ帝国は多種多様な民族を抱えた多民族国家であった。
当然、倫理観も生活感も異なる民族が一緒に暮らしたらトラブルはつきものだ。
だが、ローマ帝国には「寛容」で受け入れる器があった。
被征服民が多かったローマ帝国では、被征服民であってもローマ市民や良い地位につくことが出来た。
アメリカンドリームならぬローマンドリーム。
社会階級に流動性のあったローマ帝国だからこそ活気もあったのだ。
あれだけ貢献しながらアテネ市民になれなかったアリストテレスの例のようにギリシアとは大きな違いである。
ここまで寛容でいられたのには、「ボーダーレス」が挙げられる。
あまり国境を意識せず、同胞として迎えられたことも大きかった。
どんどん拡大しながらも内と外を分けて、外にも活躍の機会を与えたのは素晴らしい。
江戸幕府ならば、外様大名には幕末まで出番はまわってこなかった。
「寛容」のメリットは、失敗を受け入れられるところにある。
ローマ人の周囲にはローマ人よりも優秀な民族ばかりであった。貿易ではフェニキア人に勝てず、強さもエトルリア人に勝てない。芸術もギリシア人にはかなわない。
そんなローマ人が覇権を握れるようになったのは、失敗を許容し、そこから学べる民族だったからではないだろうか。
フェニキア人と地中海の覇権を争ったポエニ戦争では、両陣営大きな違いが一点あった。
それは敗者に対する寛容だ。フェニキア人は失敗した指導者はどんどん処刑した。失敗したら処刑されるような国ならば、ミスも隠すし、失敗を活かすこともできない。
一方、ローマは、大敗を期した指導者でも、やり直しの機会を与えている。
ローマ帝国は領土を広げていける間は、未完でありつづけ、未完だからこそ伸びしろを持ち続け変化に前向きになれた。
そんあワクワク・メキメキの状態が、「古代ローマ的な魅力」を生み出すのだろう。
スポンサーリンク
さいごに
「不寛容」が進んでいる日本では、「変人」は面白いが、とかく生きづらい。
自分が暫定的にいるにすぎない空間での価値基準を守る人間だけが生存できる世界では、なかなか古代ローマ的な魅力を持つ人物には巡り会えないかもしれない。
自分とは違う考え方を受け入れるのはたしかに難しい。
でも「変人」がいないと変わらないのも事実。
代わり映えしない退屈な日常に変化を与えてくれるのが「変人」で彼らは「古代ローマ的魅力」を備えているに違いない。
本書を読むとなかなか出会えない人物と出会えるので、「ふつう」ってなんだろうと自分を振り返る事ができる。
「ふつう」であることを強いられる世界はとかく窮屈で、そこに居続けなければならない理由なんてないことに気付かせてくれる。
「いい女」とはなにか?の章はすごく共感できた。女とか男である前にまずは一人の人間になれる人間がかっこいいのよね。