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女々しいイメージのショパンですが・・・
ショパンというと病弱で女々しい印象があるが、少年時代、青年時代は活発的な男の子で常にクラスの中心人物だったようです。物腰柔らかくウィットに富んだ会話に惚れてしまう女性も少なくなかった。
潔癖症で外見に気を配るので仕立てた服装を身にまとい、社交費として湯水の如く消えていきます。にもかかわらず内気な性格のため200名以上の演奏会はお断り。優柔不断でなよなよしていますが、そんなところが可愛いのか母性本能に訴える天性の才能に恵まれました。
情緒に訴えかけるメロディー
そんな彼の音楽には、感情が込められていて、聴くものを魅了しますが、実はベートーヴェンが現れるまでは「音楽は情緒に訴える下等なもの」と思われていました。今以上に知性を崇めていた時代なので、情緒に溺れるものは知性がないと見られていたんです。
その後、ベートーヴェンが音楽を哲学的な「芸術」にまで昇華したことによって、ショパンのように感情を乗せた音楽が受け入れられるようになりました。ショパンの音楽を形成したその生涯を辿っていきましょう。
フランス人とポーランド人のハーフ
ショパンは1810年にポーランドの小さな村で生まれました。フランス人の父がフルートを吹き、ポーランド人の母がピアノを弾き、音楽に囲まれた一家で育ちました。3人の姉妹がおり、彼女らの愛も受けながら、幸せに育っていきました。
その後、父の仕事の都合で、一家はワルシャワへ引っ越します。ショパンがピアノをはじめたのは4歳のとき。ショパンは幼いことから音楽の才能に溢れており「神童」でした。なんと7歳のときに最初の作品を発表しています。
その後、16歳でワルシャワ音楽院に入学し、息子の神童ぶりを披露するためにウィーンへ演奏旅行へと向かいます。熱烈的な歓迎を受けてウィーンでの演奏会は無事に成功をおさめました。息子の成功と神童ぶりを目の当たりにして、父は自信を得ますが、極度の内気だった当の本人は心配でたまりません。ついこう漏らしています。
ただ死ぬために、出発するような気がする。」
名曲「革命のエチュード」誕生
慣れ親しんだポーランドを離れることは嫌でしたが、覚悟を決めて、20歳の頃にウィーンへ発ちました。しかし、その後、歴史に残る大きな出来事が祖国ポーランドにて起こります。それがポーランド独立運動です。当時のポーランドはロシアの支配下にあり、次第にロシア化を推し進め、国家主権が奪われていく様子に民衆は怒りを爆発させて、反乱を起こしたのです。
これを知ったショパンは居ても立っても居られなくなります。自分はこのまま呑気に音楽など作っていていいのだろうか。ショパンは没落貴族の生まれでもありましたので、ポーランド人としてのアイデンティティとプライドを強くもっていました。そうして悩んでいる中、親友のチトゥス・ヴォイチェホフスキーがこう言います。
「君は、戦場では役に立たない。
自分の芸術に専念し、ポーランドの名を広めることが、銃をとるよりはるかに多くの事を祖国のために成しうる。」
親友からの言葉を受け入れ、祖国に帰って革命に参加する道は選ばずに、ウィーンに留まり音楽活動で支援することにしました。しかし、革命の余波を嫌ったオーストリアでも、ポーランド人への視線は厳しくなっていきます。ウィーンの市民からは「ポーランド人を創造したのは、神様の失敗だ」とまで言われるようになりました。
音楽活動で革命を支持するはずが、ますます居心地悪くなっていくウィーン。そんな自分への無力感からショパンは自暴自棄になっていきます。そのときの心境をこう吐露しています。
サロンでは平静を装っているが、自部屋に戻ると鍵盤を叩きのめしている」
ショパンが己の無力感にさいなまれている中、ポーランド独立運動は数万人の犠牲者を出して失敗に終わります。革命の失敗はショパンの音楽に大きな影響を及ぼしました。繊細なタイプの彼の音楽に当時の感情を一気に爆発させたような激しさが混ざり合って生まれたのが、「革命のエチュード」です。
このエピソードを知ってから「革命のエチュード」を聴くと、感慨深いものがあります。彼は革命に参加できなかった。親友と一緒に革命に身を投じていられたらどんなに楽だったことだろうか。後悔と無力な自分に対する怒りが聞こえてくるような気がします。
強い女とナイーブな男
26歳の頃に、リストの引き合いでショパンはある女性と出会いました。彼女の名前はジョルジュ・サンド。奔放な性格で多数の有名人とも浮名を流していてゴシップを賑わせていた作家でした。当時は女性がズボンを履くことなんてとんでもないことだと思われていましたが、彼女は乗馬用のスボンを履いて葉巻を吸いながら人前に現れる。
そんな彼女を見て、ショパンがひとこと。
サンドのほうもショパンにはまったく関心がありませんでした。出会った当初の印象はお互いに良いものではなかったのに、人の縁とは不思議なものですね。2年後に再開したときには、サンドはショパンの音楽の才能に魅了され、ショパンも強い外見の彼女の中に秘める女らしさを知り、好意を寄せていました。二人は交際、同棲しはじめました。
強い女とナイーブな男の関係は普通の恋愛とは違って、サンドがショパンの母親を演じるような関係でした。(サンドはショパンの6個上)
娘の結婚をめぐる争い
しかしあまりにも真逆の性格をもつ二人の関係は次第に悪化していきました。とどめとなったのが、サンドの連れ子ソランジュの結婚をめぐる争いでした。ソランジュが評判の芳しくない彫刻家と結婚したことに腹を立てた母親サンド。彼女は二人の交際を否定したが、ソランジュをかわいがっていたショパンは娘の味方をする。ここでもうひとりの連れ子モーリスはショパンを嫌っていたので母親の味方になり、一家は真っ二つに割れました。そして破局した二人。あまりにもショパンがソランジュを溺愛するため、サンドはショパンが死ぬまでずっと、二人の関係を疑っていたことも原因だと言われています。
悲しいことにショパンはソランジュを愛していましたが、ソランジュはショパンのことを「セックスなしのショパン」と呼んで蔑んでいました。
死してようやく祖国の土を踏む亡命者ショパン
肺結核に冒されていたショパンは、ついに自力でベットに起き上がることすらできなくなります。シスコンであったショパンは姉に手紙を書いて呼び寄せます。
お金がなければ、借金してでも来てほしい。」
そして1849年10月17日に大好きな姉に看取られて息を引き取りました。享年39歳。
最後に残した言葉はこうでした。
ショパンの葬儀が行われましたが、サンドの姿はありませんでした。遺言に従って、姉がショパンの心臓をポーランドにある聖十字架教会に葬りました。亡命者としての道を選んだショパンは死んではじめて祖国ポーランドへ帰ることができたのです。