都心一等地にある将門塚
東京・大手町の高層ビル群の一角にひっそりと将門を祀った塚があります。
平将門は坂東を従わせて、兵でありながら新皇に名乗りあげた東国の雄でした。
そんな彼は反逆者として京都の七条川原で梟首されるのですが、その首が東京へ飛んでいき、その落ちたところが将門塚と言われています。
将門塚の他に、神田明神も将門を祀った神社としてとっても有名です。
それにしても反逆者なのに神様として祀られているのは変な気がしませんか?
普通に考えたらおかしいですよね。
ですが、平将門は少し特別な存在でして・・・
というのも最強の怨霊とも言われているのが平将門という男なのです。
そんな彼には怨霊譚がいくつも残っています。
将門の怨霊伝説
将門にはいくつもの伝説が残っています。
1)生首伝説
討ち取られた将門は、首だけになったにも関わらず、しばらく生きていたと言われています。
首と体が離れてしまった将門でしたが、「再び体と首を繋いで戦おう!」そういって合戦を望んだとして恐れられました。
2)首飛来
京都で切られた首が東京へ飛来し、供養されるまで祟りをもたらした。
3)暴風雨を起こす
神田明神の本社から別社に祭神を移したことに怒った将門が暴風雨を起こしてお祭りを中止させた。
4)大蔵省の呪い
関東大震災で崩れた将門塚を更地にして大蔵省の庁舎をつくりました。すると職員が相次いで死をむかえたり、落雷によって庁舎が燃えたりした。
5)モーターブール事件
GHQが将門塚を破壊して駐車場にする計画があったが、更地にしようとしたブルドーザーが横転して、運転手がなくなりました。
などなど
果たして本当に将門の怨霊のせいなのでしょうか?
その真相も本書にて描かれているのでご興味あればみてみてください。
人間としての将門と、伝説上での将門。どちらも扱っているのが本書の良い点です。
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エリートコースを歩んでいた将門
少年期の平将門は、有力者藤原忠平のもとで滝口武士という役職についてました。
滝口武士は地方出身の少年がキャリアを積むのに良い役職でした。
天皇の秘書官である蔵人頭に属する役職で、蔵人頭のトップは忠平です。
そんな忠平に可愛がられ、エリートコースを爆心していたのが将門でした。
そんなエリートコースを歩んでいた将門は順調にいけば成人後官位を得られたはずですが、無位無官のまま終えることとなります。
なぜか?
父がなくなってしまったからです。
父の代わりに下総国へ帰郷した将門は、親族や周辺豪族との争いに巻き込まれていくのでした。
父の遺産争い
将門の父には兄弟が沢山いました。
将門の父がなくなったことにより遺産をどうするのか?
将門は親族での争いに巻き込まれていくのでした。
それもそのはず。
将門の父が残した土地は製鉄施設を備えていたり、馬を養う放牧地を抱えていたりと有力な軍事施設でもありました。
京都とは違い、律令の浸透も乏しく、自助の世界でもあった坂東では、武力がものを言う世界。
軍事施設は誰もが欲しがるものでした。
そんな軍事施設を若造の将門に渡して大丈夫だろうか?
忠平をはじめ貴族とつながりのある将門が、貴族に言いくるめられて、軍事施設を貴族に取られてしまっては最悪です。
そんなこんなもあり、叔父である国香や良兼と将門の意見はあいません。
下手に将門を刺激して忠平が出てきては困りますので、下手に出ていました。
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親族戦争
しかし、結局は争いは起きてしまいました。
ここから先は将門と叔父たちの争いに、地元豪族も関わってきて、なんども合戦を行います。
将門が負けることもありますが、ほとんど勝つ将門。
戦の才能もあり、将門は次第に坂東で人気を得ていきます。
京都に居ながら税金だけ取る役人に不満をもっていた人民の意思を受け取った将門は、ある人物から唆されて新皇に名乗りあげるのでした。
さいごに
将門はもともと京都でエリートコースを歩んでいました。
藤原忠平との懇意にしており、坂東にいながらも京都の政治も知っていました。
しかし彼自体は口下手で政治の駆け引きなどは得意ではありません。
戦で勝っても政治で負ける。
将門は取り逃がした敵の諫言によって、ついには朝廷の反逆者になってしまうのでした。
足利義満も豊臣秀吉も天皇を廃止することはありませんでした。
しかし、将門は新皇を名乗り、天皇制への挑戦者として異彩を放っています。
ありえたもう一つの中世として平将門の人生を知るのはとっても面白いので、ご興味持たれた方は是非読んでみてください。