ベトナムから出火
ドイツ問題でゴタゴタしているさなか、真の危機がやってきた。それもベトナム、アルジェリアという植民地より。パリ解放で活躍したルクレール将軍がべトナムと暫定協定を結んだ。
ゴリゴリの植民地主義者にとっては、それが過度の譲歩とみなされ、ハイフォン湾への攻撃が第一次インドシナ戦争を引き起こす。もはや戦争を継続するほどの余裕のないフランスにとって植民地を維持するのは難しく、脱植民地への道が志向された。
ジュネーブ休戦協定が成立し、フランス軍はインドシナ撤退を開始する。
アルジェリア独立戦争勃発!
同じパターンで植民地側への過度の譲歩をきっかけにアルジェリアでも独立戦争が勃発。「フランスの不可欠な一部」としてアルジェリア死守を掲げるド・ゴール。
戦争は泥沼化し、フランス政界も混迷を極めていたので、政府はあの男に頼ることにした。内戦にも発展しかねない状態において、ド・ゴールはこう声明を出す。
共和国の権力を引き受ける用意がある
やる気を見せるド・ゴールに対して、ちゃんと憲法上の手続きは守ってね。と独裁を危惧し、ド・ゴール復活に反対するものもたくさんいた。休息を与えることなく、反乱軍はコルシカ島にまできて本土でクーデターを計画する段階まで来ていた。
状況が状況なだけに、ついにド・ゴールへの権力移譲が成立。
ド・ゴールはアルジェリアに乗り込み、バルコニーからこのように言い放つ。
フランスは、今日この日以後、アルジェリア全土にただ一種類の住民のみが存するものとみなす。同等の権利と同等の義務をもつまったく対等のフランス人だけが存在するのだ。
ド・ゴールはアルジェリアに足繁く通い、現地の声に耳をかたむけた。その後、総選挙ではド・ゴール派の圧勝。多党制のフランス政界においては異例の議席数を確保し、共和制的君主とも呼べる存在へとド・ゴールはなっていった。
「フランスのアルジェリア」に執着するフランスに、「アルジェリア人のアルジェリア」を認めるド・ゴール。国民投票の結果、アルジェリア人がアルジェリア政府をもつことが承認された。
ド・ゴール外交
植民地問題も片付けたド・ゴールは、いよいよフランスを偉大にするために行動していく。
英米露と協力はするが決して依存せず、フランスの自立を確保することであった。
冷戦においては、アメリカとソ連か二陣営が中心であるが、西欧を第三勢力にまで育てることを構想していた。
ド・ゴールのアングロ・サクソン嫌いは、戦中のやりとりで増幅していった。
同盟国に対しフランスの主権を擁護すべく腐心したこの私にも、非難の声が聞こえてきた。それも、フランスはつねに譲歩せねばならぬという観念のなせるわざとしか考えられない
英米への不満たらたらな文である。偉大なフランスになるために、脱植民地化すら手段に過ぎなかった。ド・ゴールは、第三世界の民族解放運動を支持しフランスへの信頼を高めようとしたのである。したたかなリアリストな一面も合わせ待つのがド・ゴールの凄さ。
またソ連とも接近したりとアメリカに従属はしないぞという姿勢は常にもっていた。一番最初に中華人民共和国を承認したのもド・ゴール。自由勝手に見えるド・ゴールを支えたのは何だったのか。それは軍事力である。それも核開発と核兵器の所有に力を注いだ。
北朝鮮のお手本のようなフランスの核戦略。1960年に念願の核実験が成功したときには、こう述べた。
フランス万歳!今朝フランスはより強く、より誇り高くなった
最後の戦い 5月革命
学生運動からはじまった「反乱」は長らく権力の座にいるド・ゴールへと向かった。それらにNoを突きつけ、お得意の国民投票ではなく、議会解散をもって危機を打開しようとする。
正々堂々と選挙にて戦ったため、独裁の声も止み、結果はド・ゴールの圧勝であった。外交・軍事面では秀でていたド・ゴールも経済は三流で、経済界からは嫌われていた。
1970年11月9日にド・ゴールは亡くなった。偉大さを実現するために武力を大事にした彼らしく、彼の棺を運んだのは装甲車であった。ただし砲塔は外した状態で。
まとめ
大国時代は過ぎ去り、中級国となって、米ソという大国に挟まれたフランスを偉大な自立した国へと改造したド・ゴールの人生は絶対に役に立つ。
ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過ぎ去り、一人あたりGDPが韓国にも抜かれ、中級国となって、米中という大国に挟まれた日本。
政治力では圧倒的に雑魚な日本には、ド・ゴールのような政治家を期待する声は日に日に高まっているように思える。
今最も学ぶべき政治家としてシャルル・ド・ゴールを推挙したい。