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【書評】『 蘇我氏 古代豪族の興亡』古代最強の豪族は本当に悪なのか?

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蘇我氏

おくでぃ

お久しぶりです!おくでぃです。今回は古代史最強の悪役、蘇我氏の真実について紹介します。

蘇我氏=古代史最強の悪役?

皇位簒奪を企てた逆賊である蘇我氏の横暴を、英明な中大兄皇子と中臣鎌足のタッグが阻止し、蘇我氏は滅んだ。こうして天皇中心の中央集権国家が誕生した。めでたしめでたし。

こう習った気がするが、本当に蘇我氏は悪役だったのだろうか?

大化の改新によって、蘇我氏は滅んだかのように思われているが、滅亡していない。大化の改新では、蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我氏本宗家が滅んだにすぎない。

別の蘇我氏は政権中枢に残り続け、平安時代にまで蘇我氏は生き残り続けていたのだ。

なぜ、蘇我氏が平安時代まで生き残り続けたのか。その秘密をつく鍵は、蘇我氏の血にある。

蘇我氏のみが就く職位

蘇我氏には、だいだい蘇我氏のみが就いた職位がある。それは「大臣」(オホマへツキミ)だ。蘇我氏のみ就ける役職効果もあり、蘇我氏は準皇族とも言える立場を得た。

また、皇后には、蘇我氏の女性から選ばれる伝統もはじまり、他の豪族から数歩もリードした形となる。

皇極天皇亡き後の後継者争い

皇極天皇亡き後、残された有力な王族は以下の3名であった。

・山背大兄王(蘇我の血3/4)

・古人大兄皇子(蘇我の血1/2)

・葛城王子(蘇我の血0)

世代的に上の年代である山背大兄王は邪魔なので、蝦夷が命じて滅ぼす。

次は、古人大兄皇子と葛城王子の争いに移るのは明白で、蘇我氏は古人大兄皇子に肩入れした。

ここで話を変えるが、当時の東アジア情勢は荒れていた。

百済では義慈王がクーデターで専制政治を確立。

高句麗では、宰相の泉蓋蘇文が貴族を殺して独裁政権を樹立。

こういった具合に、独裁政権が流行しており、国際情勢に対抗するために、蘇我入鹿は、天皇を傀儡にしての独裁政権を目指していた。

しかし、唐から帰国した留学生は、国家体制を整備し、官僚によって管理しる中央集権国家の構想を持つものもいた。

当然、両者は相容れることなく、後者を理想とした中臣鎌足は、非蘇我氏系の葛城王子と手を組むことに。

葛城王子こそが、中大兄皇子である。こうして645年 乙巳の変が起きる。

乙巳の変

乙巳の変はクーデターである。ときの権力者は蘇我入鹿で、彼が支える古人大兄皇子は有力な皇位継承者であった。

葛城王子は、蘇我入鹿だけでなく古人大兄皇子をメインターゲットとし、クーデターの機会を伺う。

更に蘇我氏本宗家である入鹿に不満を抱く、蘇我一族も抱き込むことに成功。地位をちらつかせて、蘇我倉家の石川麻呂もクーデターに参加することになった。

中大兄皇子に突進され、斬りつけられた入鹿はこう叫んだという。

「臣罪を知らず」(私が何の罪を犯したというのでございましょう)

東アジア情勢を鑑みて、生き残るために中央集権化を望んだ入鹿と葛城王子の方向性は大きく違わなかった。

その後、葛城王子は東アジア情勢に悩まされ、古代最大の敗戦、白村江の戦いへと向かうのはまだ先のお話だ。

もしも、入鹿がそのまま尊命ならば、白村江の戦いへは進まなかったかもしれない。

蘇我氏本宗家→蘇我倉家

乙巳の変によって、入鹿が誅殺され、蘇我氏本宗家は滅亡した。しかし、クーデターを助けた蘇我倉家は、引き続き、高地位を得て、蘇我倉家の時代がやってくる。

蘇我氏本宗家が滅んだあとも、蘇我氏の女性が大王家の妃になる伝統は継続された。奈良時代までこの伝統は残り続けたのである。

蘇我氏の嫁を求めよ

新しく支配者になったものを悩ますのは、その正当性である。

葛城王子はともかく、その他の非蘇我氏系の一族は、周囲を認めさせる力がほしかった。

そこで頼りになるのが準皇族ともいわれた蘇我氏の血だ。

大化の改新以前、唯一、大臣を名乗れる名家である蘇我氏の血を受け継げば、周囲も一目を置くため、非蘇我氏の一族はこぞって、蘇我氏の女性を嫁に迎えたがった。

結果、大化の改新以降も、蘇我氏は第一級の氏族であり続けたのである。

蘇我氏の地位を乗っ取る藤原家

日本史上、画期的な結婚がなされた。藤原不比等が相手に選んだのは蘇我氏の娼子だった。

これによって、第一級の一族ではなかった藤原家に尊貴性を取り入れ、藤原家の対外的な家ランクを高めることに成功した。

蘇我氏がやっていたように藤原氏も天皇家との結びつきを強化していく。

ついには、藤原不比等の娘(宮子)が聖武天皇を産み、藤原氏はその擁立に全力を注いでいくのであった。

平安時代まで生き抜いた蘇我氏

一般的には乙巳の変で滅んだと思われている蘇我氏は、権力と地位は大きく後退したかもしれないが、平安時代まで生き抜いたのは素晴らしいことだ。

そんな蘇我氏を沈みゆく太陽とすると、昇りゆく太陽が藤原氏であった。

かつて蘇我氏が準皇族として、天皇家に妃を供給することで他の豪族を寄せ付けない圧倒的な地位を維持していた。

おなじく藤原氏も、天皇家へ妃を供給し、産まれた天皇の外戚として権威を振るった。

藤原氏には蘇我氏というお手本があり、蘇我氏の嫁をもらって、家の格を上げることに成功してはじめて、乗っ取りは成功したのだ。

「蘇我氏なくして藤原氏なし」

そんな日本史のダイナミズムがわかる一冊である。古代史ファンは必見!

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▶︎ 数千冊の本に埋もれてる積読家 ▶︎ 古今東西の歴史が好き ▶︎ まれに読書会主催 ▶︎ 餃子が好き ▶︎ HONZのレビュアーになるのが夢

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