奇跡の塾
幕末の主人公は薩長の志士が描かれることが多い。
高杉晋作をはじめ、かっこいい英傑が集まっているのが薩長であるが、長州藩の志士はとある塾の出身者が目立つことに気が付く。
その塾の名は松下村塾。高杉晋作も久坂玄瑞も伊藤博文も山県有朋も松下村塾出身だ。
驚くことに松下村塾の教育期間はわずか一年である。塾生の数も一〇〇人を上回ることはなく、ほとんどが萩の地元の生徒ばかりだった。
エリートが集まったわけではなく、町の不良少年や農民の子も混じった私塾である。
そんな松下村塾になぜ歴史に名を残す人材を育てることができたのか。その謎に迫ったのが本書だ。
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他の有名私塾
松下村塾はとにかく小さい。物置小屋を改良した粗末な宿舎で月謝も無料。知識を問うよりも実践を重んじた塾であった。
後世の歴史から松下村塾はネームバリューがデカイが、他の有名私塾は規模が違かった。
江戸末期には松下村塾の他に適塾や咸宜園という塾があった。
適塾は、緒方洪庵が開いたもの塾で、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎らすごい生徒たちが揃っている。
地元大阪のみならず全国各地から秀才が集まった適塾は三千人を超える生徒を誇ったらしい。
一〇〇人超えなかった松下村塾とは大違いである。
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早熟の天才、吉田松陰
松下村塾を知るには当然、代表である吉田松陰を知らねばならない。
ということで本書では吉田松陰の人生から追っていく。
兵学師範の一家を継いだ松蔭はなんと一〇歳で教授として教壇に立っている。
松蔭の噂を聞きつけた藩主毛利敬親も見学にきて、驚き、天才児の噂が広がった。
松蔭は生まれながらの教師ともいうべき人物であり、四度投獄されるも、囚人たちに講義を行っている。
藩校明倫館の教授も務めた正統派教師でもあった彼だが、国禁を破った国事犯として謹慎処分にあった。
天才児として萩に知られた松蔭も国事犯になってからは世間の見る目が冷たい。
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松下村塾開講
国事犯になった松蔭を励ましたのは家族であった。
教師として人に教えているときが松蔭は一番生き生きしている。
家族向けに行っていた講義の枠が広がり、私塾として開講することになる。
当時、松下村塾以外にも私塾はたくさんあったが、元藩校明倫館の教授でもあった松蔭に匹敵する講師は他の私塾にはいなかった。
松蔭先生は超一流だが、国事犯なので通わせたくない親も多く、塾生の数は増えなかった。
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テスト重視しない松蔭
古今東西の学生を苦しめるものはテストである。
結果で人間の良し悪しを判断する悪名高きテストは競争を生む。
咸宜園では一ヶ月に九回テストを実施し、全員の結果は張り出された。
まるで昭和の学校のようだ笑
テストの結果によって、公然と区別される。
成績の良い生徒から順に窓際の明るい席を与えられ、成績の悪い生徒は薄暗い階段の下などに縮こまらなければならない。
そんな仕打ちを受けたくないから皆成績を気にして頑張る。
ムチとムチ。
大村益次郎すら途中までしか進級できずに退学しているので、そうとう激しい競争だったに違いない。
そんな進学校のような咸宜園と比べて松下村塾はどうだったのだろうか?
松下村塾の塾生はおとなしく、試験による競争などはなかった。
テストの点で競って人の上に立とうとする気風はなかったのだ。
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松蔭先生の読書相談
本を読むも中身をほとんど覚えていない。あの時間は何だったんだろうと自暴自棄になることもあるが、悩んでいるのは私だけなく、松下村塾塾生にもいた。
あるとき塾生がこんな質問を松蔭先生にした。
「今日読んだ書も明日はわすれてしまっている。どうしたらいいでしょうか」
うん、すごくわかる。これに対して松蔭先生はこう答える。
「それは至ってよきことである。およそ読書は一時に通暁し記憶することを望んではいけない。繰り返し読んでいるうちに自然意義も解け、徐々に事実も暗記するようになる。記憶力の強い者は却ってそれにたのんで、復習を怠り、ついに記憶力の薄い者にも劣るようになる。これは学問だけでなく、諸事に通ずることで、決して急いではならない。」
記憶力のない私も松蔭先生の一言に救われた気がする。
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さいごに
本書では他にも教えた科目や指導方法、対外学習など、松下村塾にまつわる情報が満載だ。
塾生への個人評価も載っていてそれがまた面白いので、気になる人はぜひ読んでみてほしい。
「学は、人たる所以を学ぶなり」
松下村塾で松蔭が教えたのは人間学であった。
共に寝泊まりして学んだ弟子たちの心を動かした吉田松陰という教師が蘇ってくる。そんな一冊。