沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰のことわりをあらわす
我々は、どんなに勢いの盛んな者もいつかは衰え滅びるということを知っている。
「平家でなければ人でない」とまで言わしめ権勢を誇った平家一門の興亡の様子を琵琶法師たちが語り継いできた『平家物語』や松尾芭蕉が弟子の曽良とともに、平泉にて奥州藤原氏や義経らの栄華と滅亡を偲んで詠んだ俳句「夏草や兵どもが夢の跡」が有名である。
ある人物の衰亡だけでなくもっと大きな文明についても衰亡論が盛んに議論されてきた。
ローマの衰亡論に至っては、名だたる著名人が書物にしたため、二千年ちかくも人々の関心を集めてきたことになる。 実際に衰亡しなかった文明や時代というものは存在しないと言ってもよい。
衰亡論が古今東西の人々の関心を惹くワケ
なぜ衰亡論はここまで人を惹きつけるものがあるのだろうか。それは衰亡論が人間のもっとも基本的な関心ごとに触れているからに違いない。
衰亡論はわれわれに運命を考えさせる。人間はだれでも未来への不安と期待の二つを持っている。それはわれわれが有限な存在だからであろう。
人間はだれでも、自分の死んだ後、自分のしたことはどうなるだろう、と考える。
そして、自分のしたことが受け継がれ、世の中がよくなることを期待しながら、他方よいものはこわれるのではないかという不安をぬぐい去ることはできない。
人間はどこからやってきてどこへいくのか。自身の生命と照らし合わせて、先まで気になってしまう。衰亡論はこうした心情あるいは関心に訴えるのがうまいのだ。
因果関係で物事を理解する我々は衰亡するにも何かしら原因があると考える。そして探偵のように歴史という資料を読み解き、その原因を探索していくのだが、これがまた難しい。
衰亡の過程は一直線ではない。もはや衰えたと思えた文明が、その後持ち直して活力を取り戻すことも珍しくはない。
明快さを好む我々には酷だが、衰亡の原因は単純明快には説明できない。ギボンは名著『ローマ帝国衰亡史』で膨大なページ数にわたって記述している(ちくま学芸文庫で10冊分!!)。
「衰亡の原因」ではなく「衰亡の過程」を細かく記述した『ローマ帝国衰亡史』は読み手にとって複雑に絡まる衰亡の原因を考察するのに最良なテキスト故に名著と呼ばれているのだろう。名著や古典は含みを持つものが多い。ほどよい抽象度で読者に考える余地を残してくれている。
ローマ、ヴェネツィア、アメリカ、そして日本・・・
本書はローマ、ヴェネツィア、アメリカ、日本についての衰亡論を考察する一冊である。著者は本書を「歴史散歩」する本と呼ぶ。
過去の人物が考えた衰亡論をベースに、各国の共通点や相違点がわかり、自分なりに文明が衰亡していく原因が考えられるだろう。ひとつだけ興味深いエピソードを紹介しよう。
重税が国家を崩壊させる悲しい宿命
国家とは徴税システムの実行機関である。税金は国家運営の血液となるのでいつの時代も最重要トピックだった。しかし平等に税金は払われるわけではない。
人間は生まれながらに脱税する動物なのか、育つ環境のなかで脱税する動物なのかわからないが、脱税が大好きだ。
税制には必ず特例規程や免税規程があり、税の免除あるいは軽減がおこなわれるが、税が重くなるとそれは増加するように思われる。
確実に税金を払うことになるのは中間層だが、彼らは重税には耐えられない存在だという点を忘れてはならない。
中間層は重税に耐えられる存在ではないし、富裕層と違って、影響力を駆使して節税したり、法改正させたりできない。
こうして税負担せず節税するフリーライダーが増え、負担に耐えきれない中間層が没落し、税負担者が減ると、負のスパイラルがやってくる。
税負担を免れる者が増えると税収が減るので、税を上げざるをえず、その際、強圧及び特例措置が不可避となり、それは必然的に濫用されることになるという性質を持っている。
重税と特例措置との濫用がいたちごっこを始めるようになると、財政は本物の危機に陥るのである。
著者は上記の言葉をローマを見て述べている。決して日本のことを言ったわけではないので勘違いしないように。それにしても日本のことではないか?と思ってしまうのは考えすぎであろうか。
わかりやすさの時代に抗う衰亡論
わかりやすさは快適で居心地がいい。私たちはわかりにくさは100%話し手が悪いという世界に住んでいる。わかりやすさ=正義、わかりにくさ=悪。白黒なんでもつけたがる。そんな「グレーゾーンの喪失」した時代は危険だと思う。
だいたい世界や人間や自然は単純な存在ではない。単体は単純かもしれないが、それらが複雑に絡み合い世界はできている。歴史はそんなわかりにくい世界を理解するトレーニングになると思う。どれも正解だけど唯一の正解というものはないことに気がつく。