「拒絶の人」
シャルル・ド・ゴールと聞いて、フランス旅行にいった人なら空港名を思い出すのではないだろうか。日本からの直行便で降り立つあの空港の名前になるほどの人物であるからには愛された人物なのだろう。
事実、ケネディ、チャーチル、アイゼンハウアーよりも彼の葬儀参列者は多かった。
たしかにシャルル・ド・ゴールは二十世紀の政治家で最も愛された政治家であろうが、同時に彼ほど憎まれた政治家もいない。
愛される理由はフランス国家の二度の危機を救ったからだ。一度目はヒトラーから、二度目はアルジェリア戦争から。ド・ゴールは「拒絶の人」とも呼ばれる。
ナチスにNo、傀儡政権のペタン元帥にNo、ヤルタ体制にNoとNoを突きつけていった。その彼の姿勢はどこから来るのか?
ド・ゴール主義
ド・ゴールは戦争の30年と繁栄の30年を経験した珍しい政治家である。
「狡兎死して走狗烹らる」と中国の名言があるが、あのヒトラーにも打ち勝ったチャーチルは戦後すぐの選挙で負けている。乱世の英雄は平和な世には不要なのだ。
そんなド・ゴールの政治思想は、「フランスの偉大さ」の回復にある。彼の思想が凝縮された一文を引用してみよう。
生涯を通じて私は、フランスについてある種の観念を胸のうちにつくりあげてきた。
フランスが「卓越した類例のない運命」をもち、「フランスが本当におのれ自身であるのは、それが第一級の地位を占めているときだけであり、遠大な企図のみが、その国民がおのれのうちに蔵している散乱の酵母の力に拮抗することができる。」
わが国は、死にいたる危険を冒しても高きに目標をさだめ、毅然として立たねばならない。私の考えでは、フランスは偉大さなくしてはフランスたりえない」
こうした偉大な国家を実現するために自分とフランスと同一視するド・ゴール。ド・ゴール主義とは、直接国民に訴えて支持を得るため、ボナパルティズムやポピュリズムの傾向が見られる。
そんなド・ゴールはどのような人生を歩んできたのか見てみよう。
偉大なるものは軍隊である
ド・ゴールは1890年11月22日、小貴族の家庭で5人兄弟の3番目の子として生まれた。カトリックの家庭で育ち、学生時代はイエズス会の学院で学んだ。
入学当初は221人中119位と普通の成績だったが、卒業時には221人中13位と好成績を残した。
偉大さを発揮できるのは軍であるため、アラス歩兵隊に陸軍少尉としてキャリアをスタート。その部隊の連隊長は後に因縁あるペタン元帥であった。
ド・ゴールのフランス時代
第一次世界大戦の主要国、英仏独の中で、主な戦場となったのはフランスである。中尉に昇進していたド・ゴールは、戦闘中3度負傷した。右足と左手と左大腿に至っては銃剣で刺されてしまい捕虜にもなってしまう。
彼は、穴掘ったり変装したりシーツで綱つくったりとお馴染みの脱走手段で6度脱走を試みたがすべて失敗に終わる。彼の不屈の精神がわかるエピソードである。
やがて第一次世界大戦はフランスの勝利で終わり、柄の間の休息を得ていたが、目が覚めるような出来事が起こった。世界恐慌である。1930年代のフランスでは不安からの脱却として人民戦線政府を選んだ。
ドイツとの間に設けた非武装地帯は次第に減っていき、英仏はヒトラーへの宥和政策を続けていった。
その頃、ド・ゴールはポーランドにて赤軍(ロシア)と戦い、戦後、ビスケット工場の経営者の娘イヴォンヌと結婚した。更に研鑽を積むために陸軍大学へ進学。上官からの成績簿を紹介しよう。
聡明、教養あるまじめな士官なり。才気と能力あり。素質十分。惜しむらくは、過度の自信、他人の意見に対する厳しさ、また、追放中の国王のごとき態度により、比類なき資性をそこなう
プライドの高いド・ゴールは上官との折り合いはまあ悪い。おべっかを使うタイプではないので昇進するのに一苦労したようだ。とはいえ上司のペタン元帥には可愛がられて、ペタン元帥付副官にも任命される。
ペタン元帥の元でド・ゴールは機動性に優れた防御体制を固めることを提案するが、ヴェルダンの戦いで要塞信仰にとりつかれた上層部は、ド・ゴールの意見には耳を傾けず、無能の代名詞にもなるマジノ線建造に突き進んだ。
ド・ゴールの意見を上手く取り組んだのは皮肉にもヒトラーであった。
ペタン元帥とも仲違いし、彼は主戦場をボルドーからロンドンへと変えた。その向かう途上、愛する母の死の通知を聞きながら。
ロンドン亡命後のド・ゴール
ヒトラーの電撃戦に為す術もないままあっという間に降伏したフランス政府。ヒトラーの支配下、ペタン元帥を国家主席にするヴィシー政権(傀儡政権)が誕生した。
戦争責任を人民戦線に押し付け、権威主義体制を確立したヴィシー政権にド・ゴールは立ち向かっていく。
彼は兵力も財源も協力者もいない全くのゼロから抵抗活動を始めた。BBC放送から休戦派を非難し、抵抗活動を継続するよう呼びかけ続けた。
フランス人にして、今なお武器を保持している者はすべて、抵抗を継続すべき絶対の義務をもつ。武器を投げ棄て、軍事拠点を明け渡し、あるいは、どんな小部分であれフランスの土地を敵の支配に委ねるのに同意することは、祖国に対する犯罪となるだろう
呼びかけるも思うように兵力は集まらず、ついにはフランス将校の中で抵抗を掲げるものはド・ゴールただひとりとなってしまった。
植民地から始まるフランス奪還作戦
ド・ゴールは英国の協力を得て、アフリカを支配下に置くことに成功した。そこではヴィシー政権の否定と植民地防衛評議会の創設が伝えられた。
独自の兵力、土地、財源を得て、「戦うフランス」と名称を変えたド・ゴール政権はいよいよフランス本土奪還を目指していく。
フランスに取り憑かれた男ド・ゴールは、クラウゼヴィッツの弟子であり軍事と政治を一体化させ、目標へと突き進む。
嫌われものド・ゴール
傲慢な態度のド・ゴールは協力関係にある英国や米国にも実はファシストなんじゃないか?などあらぬ疑いをかけられがちであった。
力がないばかりにド・ゴールは英米に無視され続けた。カイロにもテヘランにもヤルタにもド・ゴールは呼ばれていないのだ。
それでもめげることなくフランスの統一を目指していくド・ゴールは偉大である。
英米とのギクシャクした関係は戦後も続いていき、そこがフランスのひいてはド・ゴールの政治路線を規定していくことになる。
ライバル出現!
ペタン元帥を容認していた米国はペタンに失望し、代わりの男を探していた。最有力はド・ゴールだが、ド・ゴールのことは嫌いな米国。そこでジロー将軍に白羽の矢が立った。
しかし、かつてペタンに忠誠を誓ったいわくつきの男であり、ド・ゴールと常に対立した。
強力な米国という後ろ盾をもつジロー将軍は、ド・ゴールと二人の議長で「フランス国民解放委員会」を組織する。ド・ゴールとジローの不仲の利を共産党が得ていく。
歴史の法則のひとつに「敵の敵は味方である」というものがある。ジローの独断行動に怒ったド・ゴールは、共産党を懐柔し、選挙を実施した。選挙結果、ド・ゴールは唯一のフランス代表としての地位を確立した。
パリ解放へ
ようやくレジスタンス勢力を統一できたド・ゴール。
ローズヴェルトとも懇意になり、ノルマンディー上陸作戦後、いち早くパリ解放へ向かいたいド・ゴールにストップをかけたのがアイゼンハウアー連合軍最高司令官だった。
パリ迂回を希望するアイゼンハウアーに対して、パリ解放を強く望むド・ゴール。パリを支配するものがフランスを支配することを知っていたのだ。
また共産党の多いレジスタンスの手でパリが解放されてしまえば、戦後政治に影響出てしまう。だからこそ自力でのパリ解放にこだわった。やはりド・ゴールにとって戦争は政治の延長なのである。
ド・ゴールの思惑通り、パリ解放はド・ゴールの手柄となり、ド・ゴールの臨時政府に権力が集まっていくこととなる。
選挙の結果、共産党が第一党となり、ド・ゴールの政治は難航を極めた。権力を集中させたいド・ゴールに対して、個別利益を追い求める政党政治の復活を掲げる勢力。
政党政治の失敗をみてきたド・ゴールにはとうてい受け入れられず、辞任した。
第四共和制はじまる
ド・ゴール辞任後、はじまった第四共和制は第三共和制とあまり変わらないものだった。ド・ゴールと共産党の勢力が弱まり、12年間に24回も政権が変わる始末。戦後の貧しい時代は配給制により乗り切っていたが、ナチス占領下よりも少ない配給に国民は嘆いていた。
ド・ゴールはストラスブールにて「フランス国民連合」を立ち上げた。冷戦の追い風もあり、反共産主義を掲げたフランス国民連合は、次第に支持者を増やしていく。
だが、マーシャル・プランを受け入れ、繁栄の時代へと舵を切ったフランスでは、ド・ゴールの独裁のイメージは拭えず、支持者は減っていき、ついにド・ゴールは引退を宣言することになる。
悩ましいドイツ問題
フランスを常に悩ませるのが隣国ドイツである。冷戦がはじまり、ソ連との対抗上、西ドイツの再軍備化をOKする米国。日本も朝鮮戦争を期に再軍備化が許された。ちょっとまってと思うのがフランス。ヒトラーの恐怖がまだ残っているのに再軍備を認めるとは何事だ!!と米国へ不審に思うようになる。
そこで妥協案として欧州軍を創設するのはどうだろうか?とフランス政府は提案した。ドイツ単独での再軍備は怖すぎるのでせめて共同での軍備ならばよいだろうと。これにド・ゴールが噛み付いた。
フランスの化身ド・ゴールにとって、フランスの国家主権を制限する欧州軍なんて当然No。結局、欧州軍構想はなくなったが、西ドイツの再軍備化は認めざるをえなくなってしまう。