古来より描かれてきた友情論
友情をテーマに描いた作品は古来よりあったが、死をセットに伴うものであった。『イーリアス』では、親友パトロクロスの死を悲しみ、友の復讐に燃えるアキレウスが描かれた。さらに遡れば、『ギルガメッシュ叙事詩』にもギルガメッシュとエンキドゥとの友情とエンキドゥの死と永遠の命を求めての旅が描かれている。
小スキピオの親友が2人の若者に語りかける形式
著者のキケロはローマ最大の文人で、弁論家であった。彼は若い頃に法律学の大家であるスカエウォラに弟子入りしており、スカエウォラが尊敬していたのが岳父のラエリウスである。キケロは師匠が話すラエリウスの友情論をまるでラエリウスが目の前で話しているかのような形式で本書をしたためた。
本書は129年、小スキピオの死後まもなく、ファンニウスとスカエウォラの2人の若者が、ラエリウスの許を訪れるところから始まる。2人の若者の友情に関する質問に賢人ラエリウスが答えていく。
親友の死について
ファンニウスとスカエウォラは「ラエリウスが小スキピオの死をどのように耐えているのか?」と周りの人からよく聞かれるらしい。賢人と名高いラエリウスならば親友の死という辛い出来事も克服できる知恵を持っているのではないか。といった期待からだ。2人の若者もその秘訣を知りたくてラエリウスに尋ねるとこう答える。
もしわしがスキピオを失った悲しみに動揺していないというなら、どこまでそれが本当かは賢者たちが判断してくれればよいが、間違いなくそれは嘘になるだろう。この先あろうとも思えぬような、そしてこれまでなかったことは断言できる、それほどの友を奪われて、動揺しているのは確かなのだ。けれども、わしには癒しがないわけではない。
小スキピオは最高の栄誉にもあずかり、家族や友人にも恵まれて人生を往生したのは自他ともに認めることだ。そんな彼との友情の思い出が永遠に残るという希望があるからやっていける。
ラエリウスの友情論
最初の質問に気前よく答えてくれたラエリウスに感謝しつつ、2人の若者はさらに質問を続ける。「今日はせっかく時間もあることですので、友情について論じていただけましたらこの上なく有り難いことです。」「友情についてどう感じておられるのか、どのようなものとお考えかお聞かせください。」
気分良くしたラエリウスは以降、友情について論じていく。
人間に関わるあらゆることの上に友情を置くべきだと、君らに勧めることしかできない。これほど自然に適うもの、順境にも逆境にもこれほど役に立つものはないのだからな。
さらにこう続ける。
友情というものは人間に関わるものの中でも、万人が口をそろえてその有用性を認める唯一のものなのだから。
ほとんどの価値は賛否両論があるものだ。たとえば「お金」。お金は大切なものであるが、お金を見下す人も多い。特にお金で買えるもの買えないもの論争は永久に止まない。次に「キャリア」。これもお金と結びつくものだが、出世を絶対視するものもいれば、出世なんてくだらないと切り捨てるものもいる。一部の人には素晴らしいと思えることを、無価値と考える人は多い。ところが「友情」に関しては、一人残らず皆が同じく素晴らしいものだと思っている。友情をくだらない、見下す人は私はみたことがない。アンチのいない「友情」の存在に奇跡を感じる。
友情が素晴らしいワケ
そんな万人が素晴らしいと思える神々から与えられし「友情」は不思議な存在である。友情のどんなところにそんなに惹かれるのだろうか。それをラエリウスはこう述べている。
まるで自分に語るように、安んじて全てを語りうる人を持つことほど嬉しいことがあろうか。自分と同じだけそれを喜んでくれる人がいないのなら、繁栄の中にあったとて、どうして大きな喜びがあろうか。まことに、逆境を自分以上に重く身に引き受けてくれる人がなければ、それを耐えるのも難しい。
友情は順境には幸せを増長し、逆境を分かち合うことで軽減してくれるもの。人々が求める諸々のものはほとんど一つずつの目的に適うものばかりだが、友情はすべてを含んでいる。そんな友情は親友同士でしか成り立たない。そして友情は愛から生まれるものだと指摘する。友情はまるで第二の自分であるかのように他者を愛するところからはじまる。そのような第二の自分を探し求めてしまう衝動が人にはあるのかもしれない。
最後に
本書では、「友情」を壊してしまう害悪や友情に値する人の条件、友情を長続きする秘訣などについてラエリウスが教えてくれる。最後に友情についてお気に入りの名言を記載しよう。
人生から友情を取り去るのは、この世界から太陽を取り去るようなもの、友情以上の善きもの、喜ばしいものは不死なる神々から頂いてはいないのに。
ついつい当たり前に感じてしまう「友人」の大切さに感謝し、読んだらきっと友人に電話したくなる。そんな一冊であった。ともだちっていいね!